昭和54年02月01日 朝の御理解
御理解 第52節
『信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。』
驚くことはならんといわれても、やっぱりこれで驚かずにおられるかと言う様な事がやっぱり起こって参ります、ところがだんだん信心を手厚う頂いておりますと、なら結局心行ですね、ね、いわゆる心の行がいつも出来ておりますと、いうなら姿勢を、いわば崩さんで済むのです。昨日は、三件あまりは本当に、まぁ言うならばビックリするようなお届けがございましたけれども、おかげを頂いて、まぁ驚かずに済みましたし、またそれをお取次ぎをさせて頂きました。本当にあれが迂闊にしておる時ならば。
やはりビックリしたであろう、また驚いたであろうと、昨日の朝いつもの食事の時にあの、西日本の新聞を見せて貰いますけども、今日一日の運勢と言う所がある、昨日は寅年の人の所に書いてあるのが、「足元から鳥が飛び立つような日」だという事が書いてあった。だから何かビックリする様な事がという意味でしょう、本当にやっぱり一日でした。まぁ命の関わるとか財産に関わるとか、その対面に関わるとかという三つのことでしたけれどもね。本当にあのもう本当にあの、はぁ信心頂いておるおかげ。
いつも心の中にかけさせて頂いておるおかげ、と言う様な事で過ごさせて頂いたんですけれども。例えばこの量り(ちきり)がこうありますね、それに重いものを乗せると、ピンと竿が上がってしまいます。けれどもそれをこう、竿をちゃんと掴んどけばそれをクッとこうメモリをこう変えいった、分銅を変えていったらいつもこう水平の、それをこうやって握っておらんとピンとそれこそ上がってしまうような事になるのですから。それにはもう心行以外にないですよハイ、心に掛けさせて頂く所の行です。
昨日、月末御礼信話会で久留米の佐田さんが発表しておられましたが、あるところから電話がかかってきた、もう本当に昨日の御理解じゃないけれども、それこそ無念残念と言った様な、その電話であった、もうその時に、朝の御理解がピーンと閃いてきた。もうその無念残念じゃいかんて、今朝の御理解がそれじゃったよと、ね、無念ということは、ね、歯がゆいという事じゃなくて、自分の思いを捨てる事だよと、ね、自分の思いを残さないことだと、ね。
というてあの、日頃先生がいつも言われるように、言うならば猪を撃ちに出たその狩人が猪が出てきたからと言うてビックリするかって、ね、迂闊にいって山に登っておる時に猪が現われたら、そりゃビックリするだろう。けれどもいのしを射止めたいと思うて山に上ってるんだから、さぁ来たというて構えてその、いうならそれを射止めることが出来るようなことです。問題はこちらの構えだと言う様な電話がかかってきたからそういう風に答えたという話をなさっておられました。
秋永嘉郎さんが発表しておりましたが、先日から三十万からする反物を仕立てに出しよったところが、それをもう全然つかえないのに 断ちそこのうてある、そんな事があるはずはないのに、長年のたのみつけのところの仕立て屋さんですから、ところがもう役に立たんような断ちそこないをしてある、それで弁償すると、いやぁいいと言うたけれどもそのご主人までが、そりゃぁもう弁償せにゃでけんと言うて、言われたそうですけれども、私達は日頃ね信心頂いて、教えに。
もうどんな事があっても、御の字をつけて受けろと、先生が言われるから、これはもう御事柄として私が頂くけん、もうそげん心配して頂かんで良かですよと言うた。その事にそれビックリして、そういう信心があるじゃろうかと言うて、こりゃ嘉郎さんの話じゃないけれども、前にあの、その事を家内の由紀子さんがお届けしてましたが、その方をお道引きしてお参りしてまいりましたが、やはり信心をそこに現していくという事は素晴らしいことですよね。
それはどうするの、それは困ったと言うたらもうおしまいです、ね、もう本当に御の字をつけて頂こうというところに、ね、ところが嘉郎さんの昨日の発表は、それ以来というものは、これも28日の竹葉会の時に、由紀子さんが発表してましたけれども、それ以来、毎日注文の電話がかかる、一軒ずつぐらいは、それから嘉郎さんが、昨日言うておったのはもうその後、その商いタイミングの良いこと。
例えば今日も鹿の島と、あの熊本からその、反物を持って来てくれと、電話がかかったと、さぁこれは一瞬どうしようかと言いよったら、あぁいうもの熊本から電話がかかってきて、家は夕方の方が良い、片一方は午前中が良いというて、その電話がかかってきたち、だからもうそりゃぁ、そのかわりご飯を食べる暇もございませんでしたけれども、いうなら端と端ですから、万事お繰り合わせを頂いて、まぁ良い商いをさせて頂いたという発表をしてました。
もうとにかく30万の、損ぐらいな事じゃなかったというのです、ね。もう本当にこれはね、昨日、桜井先生の弟さんの話をさせて頂いたけれども、さぁ8千円の罰金と聞いたとき、あの罰金というでしょうかあの、こうあのスピード違反で、その取られた時に、もう瞬間ですたいね、これは、はぁこれは、おかげ頂いたとこう思うたち、それがおかげになるのです。ね。
八の字と言やもう広がりに広がると、御理解に頂くから、これはおかげを頂いたとこう思うたとこう言うのです。問題はその構えという事は、肩かためてこうやって構えておる事じゃないです、心にいつも神様を感じておる、いうならば心行をさせて頂く、もう心行家業の行に極まった合楽の修行はそういわれるのですから、ね、いつどういう事が起こって来てもそれをドッコイと受け止めさせてもらえる。
昨日は研修の時にも話した事でしたけれども、いつも私共は自然成り行きを尊ぶとか大切にするという事は、分かっておってもそれを大切にしきらん、尊んで頂ききらん御の字をつけて頂ききらん。さぁ困ったさぁと言うたらもう、一歩後退しておるようなもんだと、椛目時代に頂いたこれは御理解でしたけれども、その事を昨日研修の時に話した、ね、今あの野生の草にひっぱりごんぼち私ども子供の時いいよった、こうピョンとたったね、それをその、こう二人でして引っ張って切れた方が負けというのですよ。
だからあれをそのままにしておったら、そのままでこう二つで折ってこうしたら、もうすぐ切れるです、それであれを緩めるち言うからこう揉んどくです少しばかり、そしてこうやってするとそれが強いです。 それば良うく揉んどった方ほど強い、これは自然の草という、言うならば自然との対決という事について頂いたんですその御理解、ね。いつも私共はそういう自然の働きを対決しておるのです。
ですから、心を緩めておくというか、心をいつも喜びのというか、まぁ心にいつも信行をさせて頂いておる、というおかげを頂いておかんとです、もうそのまましよると、ちょっと負けてしまう、対決そして負ける、それではいけん。自然の対決にいうならば、有り難いとかドッコイと受け止めていける、ね、これはおかげを頂いたと言う心の状態を作っておくと言うのですから、これは本気で、信心の稽古をしておらなければ出来ることじゃないのです。ね。
ただお参りしよります、御理解頂きよりますと言うて聞き流しておったんではやっぱり、これがビックリせずにおられようかと言った様な事になってします、ね、そういう私は体験を一日積んで行かなければ、驚いてはならぬと言われても驚かずにはおられない、ね。ビックリするなと言われんでもビックリせずにはおられない、これはもう本当に、昨日私はここでお取次をさせて頂いたことは。
本当にビックリせずにおられん、驚かずにはおられん、さぁそれはと思うようなお届けばっかり三つ続きましたです。けれどもこちらがおかげを頂いて、こうやってゆるめておる時ですから、おかげになるよと、ね、こう言えるし、こう竿を握り、取り離さずに握っておりますから、分銅をちょっとこちらへやれば心が平生、その平生心をもってお取次をさせて頂くから、おかげを頂くよと言える、ね。
昨日これも、研修の時に、話させて頂いた事でしたけれども、先だってから、あれは天台宗の千日修行か何かというのをやってます、ね、これは、いわゆる荒行なんですね、金光教でいう荒行、そういう修行をもう、合楽ではもうしない事になったんですけれども、荒行という物には、もう限界があるという事です、もうあれ以上の、荒行は出来ない訳ですだから。ね。
ところが信行というのは、限りがないです、金光様の御信心はね、限りない無尽蔵、それこそ向こう開けっ放し、八の字だと言う様なおかげの頂けれる信心ですから、その限りない修行に取り組んでおかなければならない。もうこれまでこれ以上の事は出けんていう事はありません、自分の心を世界中に、いうならば心を使っていけれる修行でも出来るのです、心でする修行ですから、ね。たとえばスポーツなんかと言うのは、これはもう人間の限界に挑んでおるというのがスポーツでしょう、ね。
けれども、ならこの家ば飛び越えるごたるち言うならとても一億年たったっちゃ、現われないでしょうのう。もう難儀なら難儀ち、もうこれ以上の事は限界がある、そのそれに取り組んでおるのが言うならば荒行の信心です、だからそれ以上の事は出来ないです、ね、ところが信行と言うのはです、ね、この家を飛び越えるどころじゃなか、天地を元にかけていうならば修行が出来るんです、限りがないんです。ね。
そして自分の心が豊かになっていく美しくなっていく、それこそ驚かんで済むビックリせんで済むような心の状態が、段々開けてくる頂けてくるという事が有り難い。ね。どうでも信行に専念しなきゃダメです、ね、その中にです、いうならば驚いてはならんぞと仰るけれども、驚かずにはおられんというのではなくてです、ね、驚かんで済むいうならばおかげ、だから自分の信心のバロメーターのようなもんです。
色んな事が起きてくる事は、はぁ自分なこれだけ信心しよるけれども、たったこのぐらいな事に驚きよる、このくらいな事で腹が立ちよる、このくらいな事でビックリしよる、ね、さぁこげな事じゃでけんと言うて、いわゆるいよいよ信行に励ませて頂かなきゃならんとこう思うのです、限りないもの、ね。いよいよ、いうならば楽なおかげ、ね、今日わたしここへ座ってからあの、頂いた事は、楽という字の白という字を書いて、横にこう糸偏のようなのがありますね、そこまで頂くんです。
だから信心させて頂いておればね、もうどげな、これはまぁお互いひとつ絶対のまぁ確信というか、そういう一つの観念が出来てこなきゃならんのですけども、どういう例えば事があってもです、これを信心で受けてさえいけば必ずおかげになるという事です、おかげが受けられるという事です。中には死んだり切ったりというもう取り返しのつかんような事がありますよ、そりゃぁなら、人間が信心しよるけん死なんとどん言いよんならもう大変な事でしょう。だからそう言う様な事に直面してもですよ。
なるほど死ぬという事は悲しいことです、潰れるという事はそれは困った事でしょう、けどもその困ったとか悲しいという事をドッコイと信心で、悲しいけれども有り難い、ね、困った事だけれどもおかげで信心が出来ますというようなおかげを頂いていってです、もう絶対それのおかげでという、これだけは、もうこれは私が確信して言えるという事はこのことです。どんな事が起こってもその事を有り難く大事にして行くならば、それがおかげの元になる。合楽はそれだけで大きくなって来てるです、ね。
それをただシダゴダでただ悲しいとか苦しいとか困っただけでお願いしますで、それはおかげになってもそれではいけんですから、なら今日頂きますような、その時点でです、ね、それこそ嘉郎さんじゃないけれども、その良いですよと、心配なさらんでも良いですよと、したらご主人までがあくる日行ったら、いやそりゃぁもう弁償させてもらわなければと言われるけれども。いいえぇもう実は私達はこういう信心をさせて頂いて、もうその事に対してでも。もう御の字をつけて頂いておりますから。
もういっちょん心配して頂かんで良いですよという、その頂き方がですね、その時点で出来るおかげを頂くために日頃若mっとかにゃならん、それを体験しとかにゃならんそれを頂きこなすことの為に、心行が本当になされておかなければならんという事になるのです。しかもその心行というのは限りないおかげの頂けれる、いうならば表行には限界があるね。心行には限界がないその限界のない修行に取り組んで行かなきゃならない。まぁ限界がないほどに。だから誤魔化そうと思やぁ心行は何ぼでも誤魔化される。
けれども誤魔化しの聞かない程に神様を信じての信行にいよいよ取り組ませて頂いて、驚かんで済むビックリせんで済む、ね、けれども実際は驚く事もありゃぁビックリする事もございますけれども、その時にははぁ自分の信心がこの程度だなぁと分らせて頂くとです、ね、次には失敗せんで済むです、そして一段一段上がっていく、一段一段進んで行くという事は、おかげの方も一段一段すすんでいく事に繋がるんですから、もうこの修行に取り組まなければいけないという事ですよね。
どうぞ。
(途中で思い出される。追伸)
あっ今のその、楽という字の事を説明してなかったですね、その白というこう、私だん神様を頂いとるからと思うて安心しとるという事ですよ。 それにね、この木が伴わなければ楽じゃないという事、木という事は、良く今日言われた心行ですね、それが伴うて初めて楽、もうこの楽のおかげを頂くという事はね、そういうあの、平穏無事の時に楽であるというとじゃい、どういう驚かなきゃもならん時でも、驚かんで済む楽のおかげを頂かなきゃならんという事なんです。